私の母は1932年に京都で生まれ育った。
母の祖母は京都の公家の一人娘でそれなりの財産もあったらしい。けれど母が物心のつく頃には父親の商売はうまくいかず、堀川通りにあった家屋敷をどこかの工場に貸して、自分たちは工場の敷地内に住んでいたらしい。
父親は京都のお公家育ちでおっとりした優男だったが、母親は松山の裕福な百姓の親戚筋から嫁いできた気の強いしっかりした女性だった。
母には足の悪い姉がいて、母親から「お前が一生姉の面倒を見るように」と子供の頃から言われて育ったと母から何度も聞かされた。
第二次大戦中京都は東京や大阪のような大きな空襲もなく暮らし向きも悪くはなかったようだが、堀川通りを広げるための区画整理で工場は潰され、わずかな補償と引き換えに土地と家はなくなってしまった。
(京都の空襲がひどくなかったのは原子爆弾投下の候補地に選ばれたためで、京都が候補から外れたのは原爆投下の1ヶ月前だった。「もし」ということはあり得なかったことなのでこの言葉は使わないようにしているが、私が今こうして生きているのは単なる幸運でしかなかったのだと思う。それと同時に原爆で亡くなった多くの方のご冥福を心より祈りたい。)
父親にすぐ仕事が見つかるはずもなく、母は女学校の卒業を数ヶ月後に控えていたが学校を辞めて仕事をしなければならなくなった。女学校の先生が「せめて卒業するまで待ってあげては」と母親に掛け合ってくれたそうだが、頑固な母親が首を縦に振ることはなかった。
そして母は三条通にあった明治屋の2階にオフィスをかまえていた麒麟麦酒京都支店で働き家族を支えた。おそらく1949年か1950年のことだろう。そこで母は私の父と出会い結婚し、兄が生まれ私が生まれ、1960年半ばに父の転勤で京都から新潟に移った。
戦時中にあったビール会社に対する規制も1950年までにはなくなり、日本の経済発展にあわせビール会社は大きく成長した。1956年日本政府が発した「もはや戦後ではない」という言葉に象徴されるように、1950年代後半から1970年代前半は日本の高度経済成長の時代だった。そして私の父と母はその真っ只中にいた。
1962年生まれの私にとって、日本の将来は明るく希望に溢れていた。そんな時代だったのだ。私が小学校に上がる頃には日本も日米安保保障問題や学生運動とそれに続く日本赤軍派の事件などもあったが、それでも世の中の総体的なムードは明るかった、と思っていたのは私が子供だったからだろう。
日本は間違った戦争をしたけれどそれは終わって、これから日本も世界もどんどん良くなる。いろいろな差別や問題もあるようだけど、みんながいい世界を作るために頑張っているんだ、と私は信じていた。
母は母で父の転勤によって保守的で閉鎖的な京都の地域社会と姑や小姑から解放され、新潟での新しい生活を楽しんでいた。日本海側では大きい都市である新潟市には大手の会社の支店が多く、学校には毎学期転校生があふれていた。そして、なぜか私たちの小学校は新潟市の中でもリベラルな小学校として有名だった。そういえば、小学校の6年間に国旗掲揚や国歌斉唱というのを全く経験したことがなかった。そのくらいリベラルだったのだ。
幼い私にとって「民主主義」という言葉はそうした明るさ、ポジティブさ、囚われのなさを意味し、京都という古い町を抜け出した父も母も新しい考えをもった「民主的な人たち」だと思っていた。
幼い私は日本以外の文化に興味があり、日本の昔話よりもグリム童話やアンデルセンやロシアの民話を夢中になって読んだ。ソウル・トレインやルーシー・ショー、ラッシーやフリッパー、パートリッジ・ファミリーといった米国のTVショーが大好きだった。
日本もアメリカのように「進んだ」国になることを疑っていなかったし、そのために私は何かをしたいと思っていた。
私が小学校を卒業した1975年春、父の再度の転勤で私たち一家は京都へ戻ることになった。
この転勤の裏には父の母親と姉が麒麟麦酒京都支店の支店長の元を訪れ、父を京都へ呼び戻して欲しいと直訴した(もちろん父は知らなかった)というエピソードがある。それだけなら、息子に近くにいて欲しかったんだよね、と微笑ましいエピソードで終わるのだが、それだけではなかった。戦争で兄を亡くし結果的に一人息子となった父は、出世街道を外れることを条件に京都へ帰ることを選んだ、と母から聞かされたのはずっと後になってからだった。
Comments