• Hisami

母の死

2月末に北海道に住む兄から電話があった。めったに電話をしてくることなどなかったのだが、要件は同居している母のことだった。一週間ほど前まではなんともなかったのに突然背中が痛くなり起きられなくなり、担ぐようにして病院に連れて行って検査をしたが原因がわからない。CTスキャンをした上でスペシャリストに画像を見てもらい、ようやく膵臓に腫瘍があることがわかり即刻入院したとのことだった。


病院の先生も余命はどのくらいなのかとの問いにははっきり答えられないらしく、ただ症状が出てからの病気の進行は「とても」早いと説明があったそうだ。


その日はちょうど日本政府が空港におけるコロナ水際対策を1段階引き上げたばかりで、空港でのPCR検査で結果のいかんに関わらず入国者は全員入国した翌日から国が指定する施設に三日間宿泊し、再検査で陰性だった場合のみ目的地に移動が許される(そこでさらに二週間隔離する訳だが)。厚生省のホットラインに電話で問い合わせると、再検査で陰性の場合は日本国内を移動することはできるが公共交通機関を利用することはできないと告げられた。


わたし:「新千歳空港の国際線の乗り入れが止まっているので、海外から北海道へ行くには成田か羽田で入国するしかないですよね。」

ホットラインの係員:「はい、その後はご本人がレンタカーを借りていただくか、ご家族に迎えに来ていただくということになり、北海道の皆様には誠に申し訳ないのですが・・・」


アメリカからオランダに移って10年以上ハンドルを握ったことが全くない上、日本の免許は期限が切れている。動物病院の先生をしている兄が仕事を数日休んで東京まで来るなんて絶対無理。試しにインターネットで成田ー旭川間のタクシー料金を調べてみると45万円と出た。これには東京のタクシーが北海道へ私を送って行った後東京へ帰ってくるガソリン代とか運転手の宿泊費は考慮されていないはず・・・


後で後悔しないためにもお金を出せば何とかなるものであればケチケチせずに潔く払う、というのが私の信条だが、これはいくら何でも「はい、そうですか」と出せる金額ではない。


母は入院後痛みも取れて容態は落ち着いているとのことだが、コロナ禍のため同居している兄や義姉でさえガラス越しでしか面会ができないそうで、慌てて日本へ行っても会って話をすることもできない。唯一病院側がZoomでの面会をセッティングしてくれていて、母のようなお年寄りにはちゃんと看護補助士が横について助けてくれる。さすがサービスの行き届いている日本だけある。


一度このサービスを使って母と面会をした。母は入院以来ずっと寝たきりで目を開けることもなかったのだが、私が母を呼ぶ声にうっすらと目を開けて手を振って答える姿は、今これを書きながら思い出しても切なくなる。


経過がよくその数日後に自宅療養の許可が下りたのもつかの間で、数日後には誤嚥性肺炎でまた病院に戻ることになってしまった。肺炎は治ったものの、そのまま数日後に母は89歳で亡くなった。膵臓の腫瘍が見つかってから三週間経つか経たないかのことだった。




61 views2 comments

Recent Posts

See All

これまで2回母に関する記事を書いたが、これが3回目、そしてこれで母について書くのは最後にしたい。 実は、私と母はあまり仲のいい母娘ではなかった。私はいつも母とは少し距離を感じていた。そして、母は私がそう感じていることを知っており、私は母が知っていることを知っており、それがいつも私を居心地悪くさせた。 一体いつごろからそうなったのか・・・ 私は子供時代とてもリベラルな空気の中で育った。それは現実がど

私の母は1932年に京都で生まれ育った。 母の祖母は京都の公家の一人娘でそれなりの財産もあったらしい。けれど母が物心のつく頃には父親の商売はうまくいかず、堀川通りにあった家屋敷をどこかの工場に貸して、自分たちは工場の敷地内に住んでいたらしい。 父親は京都のお公家育ちでおっとりした優男だったが、母親は松山の裕福な百姓の親戚筋から嫁いできた気の強いしっかりした女性だった。 母には足の悪い姉がいて、母親