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Writer's pictureHisami

母と娘

これまで2回母に関する記事を書いたが、これが3回目、そしてこれで母について書くのは最後にしたい。


実は、私と母はあまり仲のいい母娘ではなかった。私はいつも母とは少し距離を感じていた。そして、母は私がそう感じていることを知っており、私は母が知っていることを知っており、それがいつも私を居心地悪くさせた。


一体いつごろからそうなったのか・・・


私は子供時代とてもリベラルな空気の中で育った。それは現実がどうであれ、自由とか平等という理想が社会や個人の日常生活のそこここに見える、そんな空気だった。


小学校に入って私が不思議に思ったのは、クラスの生徒名簿が男女別でしかもいつも男子が先に呼ばれることと、男子は女子の苗字を呼び捨てにしてもOKだが女子は男子を「君づけ」で呼ぶのが暗黙の了解になったいたこと。学級会で「不思議だ」と意見を出したが、他の女子からは全く反応がなかったので、さらに不思議度が増しただけだった。


我が家が特にリベラルな家族だったわけではなかったと思う。父や母の口から自由・平等という言葉を直接聞いたりした記憶はない。実際には我が家では父と母に権力が集中していた。それでも父は「お父さんを説得できたら、ひさみの好きなことをしてもいい。」と言って(説得はできたことがなかったが)こちらの言い分を聞いてくれた。しかし、母には「ひさみの言うことは頭ではわかるけど、気持ちがついていかない。」と言われた。絶対君主、しかも暴君だった。


母は特に京都人らしく「近所の目」を気にするところがあり、母が「近所の人が・・・」という度に、小学生だった私は「なぜ近所の人が関係あるんだろう」と不思議だった。高校生なった頃にはそれは「世間」と名前を変えており、私は母に「世間って一体誰のこと?ここに連れてきてよ、話をするから。」と理屈をこね、母は時には二週間ほど私を口を聞かないこともあった。


今なら、子供(特に女の子)でも自分の着たい服は自分で選ぶのが当たり前になっているが、私には中学校にいくまで自分で着たい服を選ぶ権利などというものはなかった。「子供」には権利などと言うものはないのである。私は三歳年上の兄のお下がりをよく着せられた。当時はシャツの前合わせが男女逆だったので、男の子用を着ているというのがバレてしまうのが嫌で嫌でしょうがなかった。子供にだってプライドがあるのだが、私の母にはそんなんものは関係がなかった。母は自分がそうやって育ったのだった。


私は「子供はつまらない、損だ」とずっと思っていた。だから早く大人になりたかった、一人前としてちゃんと認められ、一人の人間として権利を持ち自己主張がしたかった。


私が中学2年の時、私たちは大津の新興住宅地に引っ越しをした。土地を買い家を建てたのだ。家のローンがどれだけあるか、母は私たちにしっかり話をした。私たちも「協力」するようにといわれた。


大津の公立高校に入学したが、元県下一番の女学校だったことが自慢の古めかしい学校で、一応男女共学だったが男女比は2:8。一学年6クラス中男子がいるのは2クラスだけで、それすらクラスの3分の2は女子という有様。

元滋賀県一の女学校だったせいか、おとなしめでわきまえた女子が多かった。

社会の授業で男女平等、女性の社会進出という話題が出たときに、OLのお茶汲みについて私が「母がOLをしていたときから何も変わっていない。女性がお茶汲みしかさせてもらえないのは不公平」と意見をいったところ、「お茶汲みは立派な仕事で何も恥じることではない。誠意を持ってお茶を入れらる人は尊敬できる」と発言したクラスメートが拍手喝采を浴びたのにはびっくりした。立派な仕事なら男性にもやってもらえば・・・と思ったのは授業の後で、授業中はひたすら驚いてしまい、何も言うことができなかった。


高校の3年間はとてもつまらなく苦痛ですらあった。高校を卒業するのが待ち遠しかった。

大学生になればもっと大きな世界を見ることも経験することもできると思っていたからだ。


そんなある日、母が私に言った。「お兄ちゃんが二浪して予定していた学費の予算が大幅に狂ってしまった。お兄ちゃんは男だから四年制の大学に行くのはとても大事だけれど、ひさみは女だから短大で十分。」

!!!!????

晴天の霹靂とはこのことだった。

でも、私は何も言えなかった。返す言葉は出てこなかったのである。

母は絶対君主なのである。これはすでに決まってしまったことなのだ。子供の私に投票権はないのだ。

不思議と怒りは感じなかった。ただ、ただ悲しく、私は何に対してかはわからなかったがとてもがっかりした。


2017年の年末から2018年の年始にかけて日本に行った時に母と大喧嘩になった。「家の事情で大学に行けなかったのを根に持っているのは知っているけど、そんなに行きたかったら『どうしても行きたい』って言えばよかったのに。」と母から言われた。

これはどう考えても卑怯だ。私はちゃんと知っていたのだ。母は絶対君主で私には投票権はなかったのだ。でも、やっぱり私は何も言わなかった。


これが母と最後に過ごした何日かの間の出来事だった。

私は早くオランダに帰りたかった。夫が待つ「私の家」に帰りたかった。

この旅行の後ほぼ6ヶ月私は母に電話をする気にさえならなかった。


突然母がもう後長くはないことを知り、私は動揺した。

このまま母が死んだら私は母との関係を一生後悔し続けるのだろうか・・・・


結局母と話すチャンスはなく、母はあっけなく逝ってしまった。

オンラインで葬儀に出席し収骨にも参列した。

時差の関係で夜中過ぎから明け方6時ごろまで一人リビングルームに座り、不思議な時間を過ごした。兄の家族が家から火葬場まで移動する間はオフラインになるので、一人静かに真っ暗な窓の外を見ながら、さまざまな思いが心に浮かんでは消えていくのを眺めていた。


父が亡くなったのはもう10年以上も前のことだ。そして今母もなくなり、私は「孤児(みなしご)」になった。つまり、わたしはこの世界で誰の子供でもなくなったのだ。

「木村さんとこの娘さん」という肩書きから解放されたのだ。それは、母の死によって私の娘という役割も終わったことを意味した。

母が亡くなるまで、私は娘というのが一つの役割であったことに全く気が付かなかった。

どれだけ下駄を履かせてもお世辞にもうまく演じられたとは言えないが、これが私にとって精一杯だったのだと思う。そして母も同じだったのだ。


母との最後の旅行で大喧嘩をしたこと、その後あまり母に連絡をしなかったこと、病気になってから全く話ができなかったこと、死に目にもお葬式にも行けなかったこと。

「娘」という役割が終わった今は、うまく演じられなかったことを素直に認めるだけだ。


オンラインで母のお棺が火葬炉に入れられドアが閉まるのを見届けたとき、私と母が一緒に演じてきたお芝居に幕が下り、素直にほっとした。これはこれでよかったとか、そういうことではなく、とにかく終わったのである。


短大にしか行けない、と母に言われて何も言うことができなかった時の私の悲しみと胸の痛みは今でもリアルだが、それは過去に属している。あれは私だったけれど、私ではない。

社会人になってから自分のお金で大学に3年から編入し、日本を離れて好きなことをしてご飯を食べている。生意気なオランダ人のカスタマーサービスを言いまかして謝らせることもできるし、日本語の文法に難癖をつけて新しい日本語文法を作り出そうとする学習者を黙らせることもできる。そして、面倒見のいい夫とかわいい犬もいる。

過去の亡霊と生きる必要なんてない。過去がいっぱい詰まった荷物はもう捨ててしまっていい。私は今生きていて、これからも生きていく。


時は流れ人は歳をとる。間違いなく私は歳をとったという動かすことのできない事実が、突然ストンと私の中に落ちてきた。そして私もいつか死ぬのだ。

それは風が吹いて雲が動いたり、木の枝が動いたり、太陽が陰ったり光がさしたりするのと同じ次元のこと、いいことでも悪いことでもない、ただそうあること、そんな気がした。


お母さん、いろいろあったね。お疲れ様。ありがとう。

(おわり)


ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

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